[詳報] 夢中にさせる日本の宝

 源氏物語千年紀に合わせ、物語の魅力を探っていくイベントシリーズ「源氏物語〜千年の時を超えて」の最終回となる第7回「源氏の世界を語る」リレー塾が8日、京都市左京区の京都会館で開かれた。作家の瀬戸内寂聴さんが「源氏物語―千年紀、そして未来へ」と題して特別講演。国文学研究資料館(東京)の伊井春樹館長も、「源氏物語―読み継がれる不思議な魅力 千年の享受史〜大沢本発見まで」として講演し、今年7月に発見された54巻そろいの写本の意義などについて話した。筑前琵琶奏者の上原まりさんによる弾き語りも上演され、約1700人の観客が聞き入った。

<特別講演>瀬戸内 寂聴さん

せとうち・じゃくちょう 1922年、徳島県生まれ。作家。63年『夏の終り』で女流文学賞、92年『花に問え』で谷崎潤一郎賞。寂庵庵主、天台寺名誉住職。2006年、文化勲章受章。

 『源氏物語』がこんなに親しまれて読まれる時代が、私の生きている間に来るとは、夢にも思いませんでした。本当にありがたいことでございます。

 千年前の平安朝時代は貴族社会で、女の子はきょうだいにも顔を見せず、屋敷の奥で育てられました。姫君は和歌を自在に作れるよう歌を覚え、字を習い、縫い物、染色、お香の教養も必要とされました。なぜ必要か。大臣クラスの高級貴族は、女の子ができた日から入内を考えるんですね。

 お妃(きさき)たちは後宮に部屋を頂く。位の高い大臣の娘は、天子さまに近い場所。お父さんの身分が低いと、端のお部屋を頂くんです。

 『源氏物語』の書き始めには、そういうことが書いてあります。光源氏の父、桐壺(きりつぼ)帝の後宮には、たくさんの妃がいた。ところが帝(みかど)は、身分の低い桐壺更衣を愛され、寝所に毎晩お呼びになる。更衣は美しく装い、長い廊下を行列をして行かなきゃならない。呼ばれなかったお妃たちはいじめてやろうと、更衣が通る場所に汚い物をまき散らしたり、廊下の真ん中に戸を立て閉め込んでしまったり。そういう面白い小説を、紫式部が書いていました。

 『紫式部日記』を読むと、紫式部の人柄がわかります。自慢話と、ライバルの悪口ばかり。弟が父親から漢文を教わっていて、なかなか覚えない。自分は横で聞いているだけで覚えてしまって、父親が「この子が男だったら」と嘆いた、などと、さりげなく書いてある。こういう意地悪な人は、小説がうまいんです。

 一条天皇は定子中宮をかわいがり、その定子の女房、清少納言は随筆を書いている。焦った藤原道長は、評判の小説を書く紫式部をスカウトして、高価なすずり、紙、墨、筆も参考書も与え、「さあ書け」と。それを一条天皇がお褒めになった。この作者は、日本だけでなく中国の歴史、古典も勉強している。面白い小説だと。道長はうれしくてしようがない。「そら書け、そら書け」、そういう風に、あの長い物語ができたんですね。

 そして、これは男女の恋愛の大長編小説でした。子供のようだった彰子中宮は、この小説を読み、恋愛とは何か、男はどういう女を好きになるかを覚えた。そして天皇に愛され、懐妊したのです。皇子が生まれたころ、道長も紫式部も幸せの絶頂だったことでしょう。

 ちょうど千年前に、世界の人が知らない小さな島国の子持ちの寡婦が、たった一人で書いた長編小説が今なお面白い。ただ原文は、少し難しい。ですから近代に入って、まず与謝野晶子が現代語に訳しました。それから文豪・谷崎潤一郎も。私は徳島の女学校へ入った13歳の時、与謝野源氏を図書館で読んで、こんな面白いものはないと思った。

 その後、図らずも小説家となり、大先輩の円地文子さんが訳をなさった。円地さんはこのために、私が仕事場にしていた目白台アパートに、仕事場をもたれたんです。「お茶にしない?」と誘われると、興奮しきった円地さんがうなされたように、光源氏のこと、『源氏物語』のことを話された。

 その円地さんの名訳すら、現代人には読みづらくなってきた。私はさらにわかりやすい、子供から90のおばあちゃんまで読める源氏を訳したいと思いました。70歳で筆をとった私の訳が完成して、今年が10年目です。『源氏物語』はわかれば面白い。だって男女の色事しか書いてないんですもの。

 私は最近、大冒険をいたしまして、ケータイ小説を書きました。紫式部のつもりで、「ぱーぷる」という筆名で。それがすごい、もう300万人が読んでるの。

 やがて『源氏物語』も、ケータイで読まれるかもしれません。まず今の言葉で理解して、さかのぼって、ああ寂聴訳がある。その前は円地さん、谷崎さん、そして最後は原文まで到達してほしい。日本文化がいかに深いか、よくわかります。源氏は日本の宝、文化は宝です。お読みになれば、日本に生まれて良かったと思われることでしょう。

<講演>歌人や武士も愛読…国文学研究資料館・伊井 春樹館長

いい・はるき 1941年、愛媛県生まれ。文学博士。著書に『源氏物語注釈史の研究』『源氏物語の謎』『源氏物語論とその研究世界』など。

 『源氏物語』は、なぜ千年もの間、読み継がれてきたのか。また、どのように読まれてきたのか。作者の紫式部はどんな女性だったのか。いつ生まれ、どんな生活をしていたのかは、よくわかりません。

 長徳4年(998年)ごろ、父親ほど年の離れた藤原宣孝と結婚したと考えられ、女児を産み、2年半ほどで夫と死別しました。

 長保元年(999年)、藤原道長の娘・彰子が入内する。当時、一条天皇のもとには中宮定子がいて、清少納言が仕えていた。ところが翌年、定子は亡くなってしまう。紫式部が宮中に上がったのは、清少納言が宮仕えをやめてからです。

 寛弘5年(1008年)7月、中宮彰子はお産のため里帰りし、9月11日に敦成(あつひら)親王(後の後一条天皇)が誕生。道長の喜びはこの上なく、11月1日、若宮の生後50日のお祝いが行われた。この時、歌人で政治家だった藤原公任(きんとう)が、紫式部のいるあたりへ来て「このわたりに若紫やさぶらふ」と呼びかけた。『紫式部日記』の中で、はっきり『源氏物語』の存在を確認できるのが、このくだりです。

 中宮彰子が若宮とともに宮中に戻る直前には、『源氏物語』を書写する作業が道長邸で行われました。そして中宮は『源氏物語』を持って、宮中にお帰りになった。『源氏物語』が世の中に広まったのは、まさにその瞬間といえるでしょう。

 『源氏物語』成立の十数年後、菅原孝標女(たかすえのむすめ)が『更級日記』に、叔母から『源氏物語』をもらって夢中で読んだと書いている。たくさんの絵も描かれた。平清盛の娘、建礼門院も『源氏物語絵巻』20巻を持っており、平家滅亡後は鎌倉幕府の所有に帰したとされています。

 平安末期、院政期になると、『源氏物語』の仏教的背景、漢籍の引用など、膨大な注釈書が出来てくる。室町末から江戸時代には、絵入りのダイジェスト版、梗概(こうがい)書も作られました。

 和歌の本、という読み方もされた。歌人の藤原俊成が「源氏見ざる歌詠みは遺恨のことなり」、『源氏物語』を読んでいないような歌人はけしからんと言った。

 あるいは政治の本としても読まれた。徳川家康が豊臣家を滅ぼした後、京の二条城に入ってまず、源氏学者の中院通村に『源氏物語』を読ませた。通村は天下太平を願い、光源氏が六条院を建造し栄華を極めた「初音」巻を進講したのです。

 最後に、約70年ぶりに発見された『源氏物語』の写本「大沢本」についてお話ししたい。奈良の旧家・大沢家に伝わった写本を、明治40年(1907年)に小杉榲邨(すぎむら)という文部官僚が調査した。さらに昭和15年(1940年)ごろ、国文学者の池田亀鑑(きかん)も調べた。しかし戦争で行方不明になり、このほど世に出てきたのです。

 これがかなり変わった写本で、例えば「夕霧」巻の末尾が「なにはの浦に」となっている。これは、数多くある写本の中で、「大沢本」だけの特徴だ。

 『源氏物語』には様々な写本があるが、こうしてまだ新しい本が出てくる。『源氏物語』は生きている。文化遺産としての『源氏物語』、日本古典を次世代に伝えていくのは、我々の使命といえるでしょう。

琵琶奏で「桐壺」朗読…上原 まりさん

 宝塚歌劇団花組で娘役のトップを務めた筑前琵琶奏者の上原まりさんは、琵琶を奏でながら「桐壺」の巻の語りを披露した。軽やかな音色が会場に響くなか、上原さんは『源氏物語』の原文と、瀬戸内寂聴さんの現代語訳を自在に組み合わせ、観客を「平安の世界」へと誘(いざな)った。

〈主催〉 読売新聞大阪本社
〈共催〉 源氏物語千年紀委員会
〈後援〉 文化庁、京都府、滋賀県、大阪府、兵庫県、関西経済連合会、京都商工会議所
〈協賛〉 岩谷産業、NTT西日本、オムロン、関西アーバン銀行、関西電力、きんでん、コスモ証券、清水建設、ダイキン工業、ダイワボウ情報システム、日本生命、非破壊検査、丸一鋼管、ユニチカ

2008年10月23日  読売新聞)